3週間と数日ぶりの投稿となります。
突然のご報告を失礼します。
私も驚いておりますが、皆様も信じられないであろう、
「嘘みたいな」内容となります。
年に1〜2回は、パリを中心とする海外出張があった妻なので
「あれー、まだ帰ってこない…数日延長かな」くらいの気分なものの、
蓉子は永遠に本当に、帰ってこない存在となりました。
↓↓↓↓↓
★12月27日(金)に緊急入院した妻 川島蓉子は、
1月3日(金)に帰らぬ人となりました。
<経緯>
12/27(金)早朝、夫婦二人で一年前から過ごす
杉並区荻窪のマンションにて。
超早起きの妻は、まだ暗い5時半頃のゴミ出しと
散歩に出た際、マンション前のコンクリート道路で
右後方に激しく転倒。頭(右の こめかみあたり)を強打。
救急車を呼んでくださった方があり、私が同乗して
7時頃に新宿区戸山の「国立国際医療研究センター病院」に
入りました。
救急車内で妻は、痛みは訴えず(すでに麻痺かと)、
自分の名前や転倒の経緯を話すなどしてくれましたが、
処置室に入ってからは急激に意識が遠のき、昏睡状態に。
医師からは(外観の傷は大袈裟に見えないが)
脳しんとうと脳幹の出血が激しく、内部を圧迫。
当然検討した頭の手術の実施も、
手のほどこし用のない状態との判断に変わりました。
急性 硬膜外血腫。
たとえ手術を早めにした場合でも(悲しい言い方ですが)
植物状態、良くて かろうじて反応するかどうかでした。
当初は数時間の命を宣言されましたが、やや持ち直し、
12/27(金)〜1/3(金)までの正月を含む1週間(まる8日間)
昏睡状態とはいえ、親族が語りかける時間をくれました。
1/3(金)20時半頃、逝去。
1961年(昭和36年)12月1日生まれの63歳でした。
新潟市出身でライター・ジャーナリストの妻は一人っ子。
昨年4月に母も亡くし、直接の親族はいません。
日頃から、妻の口癖は、
・いま63歳だけど、70歳なんて絶対に嫌よ。
・5歳上のあなたもいるから、もう少しは生きるけど。
・あなたより後に死にたくない、取り残されるより私が先。
・何かで入院することがあっても、延命治療は絶対にしないで。
そんな話を、事故の前日にもしており、
「でもお互い70歳と75歳を過ぎたら次は養老マンションか」
などと言っておりました。
入院に際しては、親族以外のお見舞いはご遠慮させていただきました。
ご容赦ください。
<葬儀>
葬儀は1/11(土)午前中に行わせていただきました。
家族・親族を中心とする十数人だけの式で、
「通夜・告別式・初七日」もまとめた、本当に簡素な一日葬でした。
多くのお友達やクリエイター、編集者、
大手企業の皆様とも交流のあった妻ですので、
壮大なお式にてお見送りいただくことが本来ではございますが、
生前の蓉子の希望もあり、このようなワガママとさせていただきました。
浄土真宗(大谷派=お東)の住職から頂いた法名は
「釋尼光蓉」(しゃく に こう よう)で、
「お釈迦様の仲間となった/女性の(昨今は省くこともあるようですが)
/光り輝く/蓉子」との意味。
皆様の胸にも、明るく輝く蓉子を残していただければ幸いです。
お香典 お花等も、ご遠慮いたしております。
<御礼>
自ら大きく転倒し、良く言われるフレーズでありますが
「頭の打ち所が悪かった」なんて…
そして昏睡状態1週間の「見送り」期間を経て、
さっさと逝ってしまうなんて、まったく冗談のようです。
しかし、夫である私や、娘、息子からしましたら
「母さんらしいよねー」という「やらかし」で、自らが望んだ
「夫から取り残されるより先、自分が60代でいなくなる」を
見事に実現してくれました(やや早かったですが…)。
自分でも「バタバタのサザエさん」と称するほど
おっちょこちょいの蓉子を、笑ってお許しください。
蓉子は編集・ライター・ジャーナリスト系、
私は広告・コピーライター・ディレクター系で、
よく「企画や本の内容、帯のコピーなど協力なさっているのですか」と
聞かれることがありましたが、我が家はお互いの仕事に不干渉。
まっすぐの妻と、マイペースの夫。
一緒に進めたら喧嘩になりました、多分!?
それでも、「今日はこんな個性あふれる方とお会いした」と、
ちょっとずつですが、皆様のことはお聞きしておりました。
私から訃報を差し上げることは忍びないのですが、
皆様のこれまでのご愛顧に、心より感謝申し上げます。
そして、蓉子がお仕事を突然停止した方々にお詫びいたします。
以上、ご報告と御礼とさせていただきます。(夫より)
■川島 蓉子:ジャーナリスト
1961年新潟市生まれ。早稲田大学商学部卒業、
文化服装学院マーチャンダイジング科修了。
伊藤忠ファッションシステムに入社し、取締役、
ifs未来研究所所長などを歴任。2021年退社。
元 多摩美術大学非常勤講師、Gマーク審査委員。
伊勢丹、虎屋、ビームス、資生堂などの取材本ほか、
エッセーを含めた30冊の執筆と、「街・店・人」に関する
各種連載、及び企業のプランニングに携わる。
突然のご報告を失礼します。
私も驚いておりますが、皆様も信じられないであろう、
「嘘みたいな」内容となります。
年に1〜2回は、パリを中心とする海外出張があった妻なので
「あれー、まだ帰ってこない…数日延長かな」くらいの気分なものの、
蓉子は永遠に本当に、帰ってこない存在となりました。
↓↓↓↓↓
★12月27日(金)に緊急入院した妻 川島蓉子は、
1月3日(金)に帰らぬ人となりました。
<経緯>
12/27(金)早朝、夫婦二人で一年前から過ごす
杉並区荻窪のマンションにて。
超早起きの妻は、まだ暗い5時半頃のゴミ出しと
散歩に出た際、マンション前のコンクリート道路で
右後方に激しく転倒。頭(右の こめかみあたり)を強打。
救急車を呼んでくださった方があり、私が同乗して
7時頃に新宿区戸山の「国立国際医療研究センター病院」に
入りました。
救急車内で妻は、痛みは訴えず(すでに麻痺かと)、
自分の名前や転倒の経緯を話すなどしてくれましたが、
処置室に入ってからは急激に意識が遠のき、昏睡状態に。
医師からは(外観の傷は大袈裟に見えないが)
脳しんとうと脳幹の出血が激しく、内部を圧迫。
当然検討した頭の手術の実施も、
手のほどこし用のない状態との判断に変わりました。
急性 硬膜外血腫。
たとえ手術を早めにした場合でも(悲しい言い方ですが)
植物状態、良くて かろうじて反応するかどうかでした。
当初は数時間の命を宣言されましたが、やや持ち直し、
12/27(金)〜1/3(金)までの正月を含む1週間(まる8日間)
昏睡状態とはいえ、親族が語りかける時間をくれました。
1/3(金)20時半頃、逝去。
1961年(昭和36年)12月1日生まれの63歳でした。
新潟市出身でライター・ジャーナリストの妻は一人っ子。
昨年4月に母も亡くし、直接の親族はいません。
日頃から、妻の口癖は、
・いま63歳だけど、70歳なんて絶対に嫌よ。
・5歳上のあなたもいるから、もう少しは生きるけど。
・あなたより後に死にたくない、取り残されるより私が先。
・何かで入院することがあっても、延命治療は絶対にしないで。
そんな話を、事故の前日にもしており、
「でもお互い70歳と75歳を過ぎたら次は養老マンションか」
などと言っておりました。
入院に際しては、親族以外のお見舞いはご遠慮させていただきました。
ご容赦ください。
<葬儀>
葬儀は1/11(土)午前中に行わせていただきました。
家族・親族を中心とする十数人だけの式で、
「通夜・告別式・初七日」もまとめた、本当に簡素な一日葬でした。
多くのお友達やクリエイター、編集者、
大手企業の皆様とも交流のあった妻ですので、
壮大なお式にてお見送りいただくことが本来ではございますが、
生前の蓉子の希望もあり、このようなワガママとさせていただきました。
浄土真宗(大谷派=お東)の住職から頂いた法名は
「釋尼光蓉」(しゃく に こう よう)で、
「お釈迦様の仲間となった/女性の(昨今は省くこともあるようですが)
/光り輝く/蓉子」との意味。
皆様の胸にも、明るく輝く蓉子を残していただければ幸いです。
お香典 お花等も、ご遠慮いたしております。
<御礼>
自ら大きく転倒し、良く言われるフレーズでありますが
「頭の打ち所が悪かった」なんて…
そして昏睡状態1週間の「見送り」期間を経て、
さっさと逝ってしまうなんて、まったく冗談のようです。
しかし、夫である私や、娘、息子からしましたら
「母さんらしいよねー」という「やらかし」で、自らが望んだ
「夫から取り残されるより先、自分が60代でいなくなる」を
見事に実現してくれました(やや早かったですが…)。
自分でも「バタバタのサザエさん」と称するほど
おっちょこちょいの蓉子を、笑ってお許しください。
蓉子は編集・ライター・ジャーナリスト系、
私は広告・コピーライター・ディレクター系で、
よく「企画や本の内容、帯のコピーなど協力なさっているのですか」と
聞かれることがありましたが、我が家はお互いの仕事に不干渉。
まっすぐの妻と、マイペースの夫。
一緒に進めたら喧嘩になりました、多分!?
それでも、「今日はこんな個性あふれる方とお会いした」と、
ちょっとずつですが、皆様のことはお聞きしておりました。
私から訃報を差し上げることは忍びないのですが、
皆様のこれまでのご愛顧に、心より感謝申し上げます。
そして、蓉子がお仕事を突然停止した方々にお詫びいたします。
以上、ご報告と御礼とさせていただきます。(夫より)
■川島 蓉子:ジャーナリスト
1961年新潟市生まれ。早稲田大学商学部卒業、
文化服装学院マーチャンダイジング科修了。
伊藤忠ファッションシステムに入社し、取締役、
ifs未来研究所所長などを歴任。2021年退社。
元 多摩美術大学非常勤講師、Gマーク審査委員。
伊勢丹、虎屋、ビームス、資生堂などの取材本ほか、
エッセーを含めた30冊の執筆と、「街・店・人」に関する
各種連載、及び企業のプランニングに携わる。